名著の残念訳(3)

名著の残念訳(3)

「ボビー・フィッシャー 魂の60局」

25 マローツィが抑え込みにならない場合 111ページ
『この意外な発明を見て、白が我に返った。』

 「発明」とは何だろう。フィッシャーのことだから特許を申請したのだろうか。原書ではどうなっているのだろう。

英文『This unexpected “discovery” jolts White back to reality.』

局面から見て discovery とは discovered attack のことである。通常の用語ではないがフィッシャーが茶目っ気を発揮して使ったのだろう。通常の「発見」という意味でなさそうなことは ” で括ってあることから想像がつく。「発明」という意味の英語は invention である。

39 対決 177ページ
『私の崩れ去った平常心は想像するに難くない。』

主語がないが書いているボトヴィニクだろう。ボトヴィニクが自分自身の心境を「想像するに難くない」などと他人事みたいに言うものだろうか。原書で確認するしかない。

英文『The reader can guess that my equanimity was wrecked.』

英文では想像する(guess)のは読者だから何も違和感はない。

試訳「読者は私の崩れ去った平常心を想像できるだろう。」

46 楽勝 210ページ
『これは読者にとっては幸運だった。さもないと、白の19手目のような巧みな手にいつかだまされただろう。』

白の19手目(好手を示す!が付いている)のような巧みな手が相手をだます手なのか?相手がだまされなかったらどういう手になるのだろう。相手をだまそうとする手は「はめ手」と言うのではないか?いくら読み返しても考えても分からない。原書も同じなのだろうか。

英文『This is fortunate for the reader, who otherwise would be cheated of White’s scintillating 19th move.』

of を by だと思っている。who otherwise would be cheated by White’s scintillating 19th move なら確かに「さもないと、白の19手目のような巧みな手にいつかだまされただろう」でよい。辞書によると cheat of には「<人から>(物を)だましてまきあげる」という意味がある。例文として cheat a person of his money「人をだまして金をまきあげる」が載っている。この例文を受身形にすると a person is cheated of his money「人がだまされて金をまきあげられる」 となる。これと英文とを対応させると「さもないと読者はだまされて白の19手目のような巧みな手をまきあげられる」となる。要するに「白の19手目のような巧みな手を見る機会を不当に奪われる」ということであろう。

試訳「これは読者にとっては幸運だった。さもないと、白の19手目のような巧みな手を見る機会を奪われるところだった。」

我々日本人だと of でも by でもたいした違いではないように感じられるが、本当は「びょういん(病院)」と「びよういん(美容院)」くらい違うのである(英米人にはこの二つの聞き分けが難しいらしい)。

誤訳に関する本を昔から色々読んでいて(細かい技術的なことは全部忘れたが)一つだけ記憶に残っているのは「英文を正しく解釈するためには(誤訳を避けるためには)こまめに辞書を引け」という教えである。変な日本語の文になった時は知っているつもりの英語の言葉でも何か知らない意味があるのではないかと辞書で確認した方が良い。

2011年07月17日 コメント(3)

カテゴリ: 名著の残念訳

コメント


コメント

  1. りんりん より:

    名著の名訳も紹介してください。

  2. Yamagishi より:

    1970年代に故松本康司会長がJCAから

    シュタイニッツ から フィッシャーまで
    歴代 チェス チャンピオンらの珠玉集
    激 闘 譜

    というチェス新報形式の実戦集を出版しました(まだ売っていると思います)。原書はマックス・エーべ著の「From Steinitz to Fischer」です。メインは11人のチャンピオンの棋譜640局ですが前の方にチャンピオンの紹介が書かれています。フィッシャーのところは次のとおりです。

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     11人目のチャンピオン、ロバート・フィッシャーは1943年3月9日シカゴに生まれました。姉のジーンが彼にチェスを教えました。
     家族はすぐニューヨークに越すことになり彼はここでチェスの最初の上達が始まります。トーナメントには1955年11才のとき参加しています。1957年はこの年若いプレーヤにとって素晴しい成績の年として忘れられません。サンフランシスコのジュニア選手権で優勝、クリーブランドの全米オープン、ニュージャージイ・オープン、そしてニューヨークの全米選手権とわずか14才の少年が脅威の優勝を続けました。
     フィッシャーはソ連のチェスの文献から豊富なチェスの知識を得るためにロシア語を学びました。インター・ナショナル・マスター位は1957年、そしてグランド・マスターを1958年。史上最年少記録です。1960年さらに優勝の数を加えます。マル・デル・プラタ、レイキャビク。ライプチヒのオリンピックでは一将として出場し最高勝率をあげ、またアメリカに帰っては全米選手権で優勝。1962年のストックホルム・インター・ゾーナル。ここでも首位となりましたが、続くキュラソーでの挑戦者決定戦では4位となって久し振りに敗者の悲哀を味わいました。
     技量まだその域に至らずということだったのでしょう。フィッシャーはこのあと国際大会から姿を消しますが、時の流れを決して無為には過しませんでした。彼特有の頑固なまでの不屈のねばり強さで研究に没頭していました。これから立ち会わねばならぬ相手を徹底的に調べ上げました。1966年、国際舞台に登場しますが1968年また引退、そして1970年再復帰。この年こそ彼のこれからの大活躍の始まりでした。破竹の勢いとはこのことでしょう。ユーゴスラビアで行なわれた”世紀の対決”。(全ソ連最高峰対残り全世界のベスト・プレーヤー。双方10人づつによる対抗戦。当時の全世界愛好者の期待した夢の企画でした。訳者註)。ここでフィッシャーは二将として出場ペトロシアンを3-1で倒しました。ザーグレブ、ブエノス・アイレスの大会にも勝ち、マジョルカで行なわれたインター・ゾーナル・トーナメントでも優勝したフィッシャーは世界タイトルの恐るべき挑戦者と見られるに至りました。挑戦者決定戦におけるタイマノフおよびラースンとの試合はチェス界では皆フィッシャーの勝ちを予想しました。とはいえ、この2人の俊才に連続6-0,6-0で完勝するとは誰も考えが及びませんでした。世界のジャーナリズムが騒然となる中をフィッシャーの対局は続きます。相手はチャンピオンを失ったといえ万戦練磨、防御の大名人ペトロシアン。フィッシャーはこの試合にも5勝1敗3和で完勝。いよいよ最高位を極めるか否かチャンピオン、スパスキイへの挑戦です。
     記者たちへのインタビューに答えて、ペトロシアンはフィッシャーの強さをよく認め次のように述べました。
     「フィッシャーは素晴しい。彼は局面の難解なところを一目で見出し、一目で解いてしまう。フィッシャーはチェスの新しい考え方に全部精通しているから用心するようスパスキイに言っておきたい。どんな手にも彼は動じない。そして針の先で探すような小さな優位を見出そうものなら、あとはまるで機械だ。彼のミスを期待するのはムダだ。フィッシャーはまったく稀有のプレーヤーだ。スパスキイ、フィッシャー戦は一荒れするだろう。」
     スパスキイ対フィッシャーの試合のための準備と交渉が始まりました。
     第28期世界チャンピオン決定戦はかくして1972年7月11日アイスランドのレイキャビクで幕をあけました。世界の耳口はその始まる一週間レイキャビクからの発表に集中しました。
     第2局が終ってスパスキイが2局目の不戦勝を入れて2-0でリード、フィッシャーは2局目を欠席したからです。そしてこの試合が互角となったのは、5局目が2.5-2.5終ったときただ一度でした。6局目白番のフィッシャーはキングを盤端に捉えて快勝し、以後試合が終るまでリードを保ちました。フィッシャーは8局目および10局目に更に勝点を加え、一方スパスキイは第11局に一矢を報いその差2点。しかし、13局目および21局目、フィッシャーは確実に差を拡大して12.5対8.5のスコアで栄冠を奪取することに成功しました。
     この新チャンピオンはチェスに対する最大の愛情と、一心不乱の研究訓練と敵を十分に知り尽くしての戦によって勝ち取ったものといえましょう。精神と肉体の全てを投入しての努力を全局に注ぎ、この強烈な緊張を最初から最後まで続けたのです。
     新しい挑戦者を迎撃するために、フィッシャーはそして再び数々のゲームを分析する求道の世界に入りました。
     (フィッシャーはこのあとチャンピオン決定戦の制度を変更する条件を提出、1974年のFIDE総会により一部認められました。このあと挑戦者にソ連の新星23才のカルポフが決定。奇代のプレーヤー・フィッシャーのチェスを再度目にしたいと世界中の愛好者が望みました。フィッシャーの残りの要求を満たすべく、FIDEの臨時総会が1975年春開かれましたがこれは却下され、フィッシャーは不戦のままカルポフに王座をゆずりました。彼フィッシャーは信仰生活に身を投じました。訳者註)

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     これを読んで意味の取れないところはありません。それどころかフィッシャーのことをよく知る日本人がいたと仮定して、その日本人が最初から自分の頭で考え日本語で書けばこのような文章になるはずです。それで元の英文がどうなっているのかどうしても知りたくて、たまたまインターネット古書店で新品同様のエーべの原書を売っていたので買い求めました。それによると英文は次のとおりです。

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    Robert Fischer, the eleveth world champion was born on March 9, 1943 in Chicago. His elder sister Jean taught him how to play chess. Soon the family moved to New York and there he made his first progress in chess. He began participating in tournaments in 1955.
    The year 1957 was remarkable for the excellent achievements recorded by this young chessplayer – he took the lead in the Junior Championship in San Francisco, in the Open Championship in Cleveland and in New Jersey, and in the USA Championship in New York.
    He learned Russian and made use of the abundance of Soviet chess literature. The title of International Master was conferred on him in 1957 and the very next year(1958) he earned the title of International Grandmaster. He was the youngest International grandmaster in chess history. In 1960 he scored new victories: in Mar del Plata Ist-IInd place, Reykjavik Ist, at the Olympic Games in Leipzig he recorded the best result on first board in the final and he also came to the fore in the US Championship. At the Interzonal Tournament in Stockholm in 1962 he again took the lead but at the Candidates’ in Curacao he had to content himself with a humble fourth place. His skill had evidently not yet reached the desired level. Fischer withdrew from international tournaments but he did not bide his time. With his characteristic devotion to chess and perserverance he set to work. He thoroughly studied the games of the opponents he was to play. He reappeared on the international stage again in 1966 only to withdraw in 1968 and reappear once more in 1970, which marked the beginning of his remarkable string of successes. One victory followed another. In the “Match of the Century” in Yugoslavia, he defeated his opponent Petrosian(3 to 1). Then he recorded successive wins in Zagreb, Buenos Aires and the Interzonal Tounament in Palma de Mallorca. He was now a serious contender for the world title.
    Although the chess world expected Fischer to win against Taimanov and Larsen, it did not the 6:0 score result in both matches. This aroused great interest in the world chess press and Fischer’s game was now closely followed. The next match was to be with Petrosian – a chessplayer of great experience and a master of defence. Fischer won the match(+5-1=3). Now Fischer was already at the top and ready to compete for the chess crown. In an interview with the press Petrosian acknowledged Fischer’s supremacy and said: “Fischer is a brilliant chessplayer. He very quickly grasps all problems of the games and silves them right away. I must warn Spassky that Fischer is at home with all new ideas in chess. Nothing can amaze him. When he has even the least advantage, he plays like a machine. One can’t possibly rely on any mistake on his part. Fischer is a most singular chessplayer. The match between Spassky and Fischer will be stiff”.
    Preparations for and talks on the forthcoming match between Spassky and Fischer began in due time.
    The 27th competition for the chess crown began on July 11, 1972, in Reykjavik. For a whole week the world followed closely all announcements from Reykjavik.
    After the second game, Spassky led 2:0(one victory and one official point), because of Fischer’s unjustified absense from the match. Spassky and Fischer equalized only once after the fifth game(2½:2½). In the sixth game Fischer played White and was brilliant, taking the King in the flank. He defeated Spassky and from that moment on led until the end of the match. The eighth and tenth games were again won by Fischer. Spassky succeeded in winning the eleventh game, thus diminishing the difference to two points. The score leaped in Fischer’s favour again in the thirteenth and twentyfirst games(12½:8½). Thus, Fischer was crowned the XIth world champion. Out of the 21 games played by Spassky and Fischer, eleven ended in a draw, seven were won by Fischer and three by Spassky(one of which was an official point, because of Fischer’s absence).
    We must say that the new world champion’s great love for chess, his hard work, his training and his complete knowledge of his opponent’s games worked to win him the title. He exerts maximum psychological and physical effort in each game and maintains this intensity from beginning to end.

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  3. りんりん より:

    ご教示ありがとうございます。
    ところどころ堅苦しい言葉を使っている感じはしますが、
    全体的にわかりやすい日本語に翻訳されていますね。



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