チェス世界選手権争奪史(221)

チェス世界選手権争奪史(221)

第9章 スパスキーと奇才フィッシャー(続き)

 1966年世界選手権戦の結果とある程度の試合内容とがほとんどすべての人にとって失望というべきものならば、ペトロシアンの次期挑戦者を決める次の一連の大会の始まりはほとんど大混乱というべきものだった。1967年のインターゾーナル競技会の開催は他を押しのけてチュニジアのスースに与えられていた。最初はインターゾーナルのような非常に重要な大会のみならずこれまで国際大会開催の責任を負ったことのなかったチュニジアチェス協会ではその責任に全然適していないかもしれないという不安があった。しかしその不安はボビー・フィッシャーが参加するというニュースに対する広範な興味と熱狂によってかき消された。彼は1965年後半には自分で行なった孤立から抜け出てそれ以来少し大会に参加して二様の結果を残していた。しかしもちろん挑戦者決定競技会進出の有力候補だった。その彼がなぜ進出しなかったのかはたぶん米国チェス協会専務理事のエド・エドモンドソンが「チェスライフ」(同協会の機関誌)の1968年2月号に掲載した同協会宛ての長い報告によって一番よく説明できるだろう。以下はその記事の抜粋である。

    9月10日 チュニジアチェス協会と組織委員会の両会長のリダー・アルカディ氏がすべての連盟に1967年インターゾーナルの日程表を送付した。10月16日月曜日の第1回戦を除きスケジュールは火曜・水曜・木曜が対局日、金曜が休日、土曜と日曜が対局日、月曜が休日と決められていた。このスケジュールによる休日の例外はレシェフスキーとフィッシャーに対してだけであり彼らの信仰に十分に便宜を与えることが必要と考えられた。[レシェフスキーは正統派ユダヤ教徒、フィッシャーはキリスト原理主義教団の信徒で共に安息日を守っていた。]
    10月15日日曜 フィッシャーとレシェフスキーは大会予定より早く第3回戦の相手と対局を始めた。これは二人の宗教上の休日である10月18日水曜を除外できるようにするためだった。
    10月16日月曜から10月24日火曜まで 最初の7回戦は9月10日にベルカディ氏の配布したスケジュールどおりに終了した。
    10月25日水曜 スケジュールではこの日が第8回戦に当たっていた。しかしフィッシャーのコルチノイとの試合はフィッシャーが10月25日日没から10月26日日没まで宗教上の休日を守るため10月30日まで延期された(9月10日のスケジュールどおり)。同様に-そしてフィッシャーはこれを不必要だと考えていた-彼の翌日からの第9回戦(10月26日木曜の対ゲレル戦)も11月6日まで延期された。
    10月26日木曜 最も自分のためになるだけでなく関係する者皆にもより良いことだと感じ、直前の2日間に行なった口頭での提案がうまく伝わっていないかもしれない[大会委員長は英語が話せずフィッシャーはフランス語が話せなかった]と考えたフィッシャーは彼の試合の延期を避けるためにスケジュールを再び調整するよう文書で提案した・・・10月26日に大会委員長のヘンタティは文書で次のように回答した。「1967年10月26日付けのあなたの手紙は確かに受け取った。そしてインターゾーナル競技会の組織委員会は遺憾ながらあなたの要求に応じられないことをお伝えする。」それがすべてだった。フィッシャーの提案以外の何らかの方法で問題を解決しようとする提案もなかった。なぜ何もできないのか(またはしないのか)の説明もなかった。役員たちと当該競技者との「コミュニケーション」もなかった。
    10月27日金曜 問題はほったらかしのままだった。役員たちは何も行動せずフィッシャーの第8回戦と第9回戦は延期された。その結果フィッシャーは大会の対局条件についての自分の改善提案が無視されているためと第9回戦の不必要な延期のあと大会後半に6日連続対局を課せられる苦難のために大会を放棄しなければならないことを文書で大会委員長に通知した・・・
    [10月28日土曜日フィッシャーの時計が大会委員長によって開始され1時間後に不戦敗と宣告され対戦相手であるソ連のアリバルス・ギプスリスに1点が与えられた。これはだしぬけで規定上不当な手続きで、以降の交渉に不幸な結末をもたらすことになった。]
    10月29日日曜 ベルカディ氏がスースからチュニスに行きフィッシャーのホテルの部屋を訪ねた。長い議論[明らかにベルカディ氏はかたことの英語で]の末にフィッシャーはスースに戻り大会に復帰することに同意した。フィッシャーが6日連続対局する必要がないように1日か2日の休日を設けることをベルカディ氏が約束した後でフィッシャーは同意したのだった。ベルカディ氏は照明を改善するか[別の論争点だった]あるいはフィッシャーの試合を別室で行なうことも約束した・・・それからフィッシャーは大会に戻り第11回戦のレシェフスキー戦にちょうど間に合った。
    10月30日月曜 フィッシャーは延期されていた第8回戦のコルチノイとの試合を行ない引き分けた。
    10月31日火曜 全競技者によって第12回戦がスケジュールどおりに行なわれフィッシャーは[ロバート]バーンを負かした。成績は7勝3引き分けで、他に1局が延期されていてもう1局(ギプスリスとの)がまだ争いの元となっていた。彼の成績に最も近い者は既に2局余計に指していて8-4の成績で追っていた。
    11月1日水曜 ギプスリス戦が宙に浮いたまま残りの試合を指すのは確かに望ましくなかった。そこでフィッシャーは審判による裁定を求めた。
     米国チェス連盟がフィッシャーのために行なったいくつかの質問に審判員たちが全然回答しなかったので我々は非常に重要なことについてうわさに頼らざるを得ない。うわさではもしフィッシャー対ギプスリス戦が本当に行われることになればソ連は自国の4人の参加者全員をインターゾーナルから引き揚げると大会役員たちに通告したそうである。もしそのような脅しがたとえほのめかしにせよ行なわれたならば次に起こったことの説明がつく。
     チェコスロバキアのヤロスラフ・サイタルは大会後半戦の審判としてちょうど役目を始めていた。彼はフィッシャーにギプスリス戦の不戦敗は取り消せないと通知した。これを聞き、そして約束の休日がまだスケジュールに組み込まれていなかったのと照明の改善の約束が守られていなかったのを考慮してフィッシャーは二度目の大会放棄をした・・・

(この章続く)

2010年05月23日 コメントは受け付けていません。

カテゴリ: チェス世界選手権争奪史

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